画像は去年の暮の朝日新聞の記事です
『戦後生まれの人々にも、戦争に関する責任や謝罪の義務があるのだろうか』という疑問にどう答えるか。
私は若いころ、自分には責任は全くないと思っていました。
むしろ私の両親は戦争の被害者だと思っていたぐらいです。
しかし、テッサ・モーリス=スズキさんの記事を読み、戦争の加害者としての責任を感じるようになりました。
「被害者は忘れないが加害者は忘れる」ということを肌で感じました。
テッサ・モーリス=スズキさんは英国出身。
1980年代にオーストラリアに移住した。
直面したのは、英国が18世紀以降に同地を植民地化した歴史。
先住民アボリジニーから土地を奪い、虐殺もあった。
『わたしは直接に土地を収奪しなかったかもしれないが、その盗まれた土地の上に住む。
わたしは虐殺を実際に行わなかったかもしれないが、虐殺の記憶を抹殺するプロセスに関与する。
わたしは「他者」を具体的に迫害しなかったかもしれないが、正当な対応がなされていない過去の迫害によって受益した社会に生きている』
言い換えれば『直接関与していないにもかかわらず「自分には関係ない」とは言いきれない』
また『罪はないがインプリケーション(連累れんるい)はある』(連累とは事後共犯の現実を認知するという意味)
テッサ・モーリスさんは以下の結論にたどり着きます。
『歴史事件そのものに対して戦後生まれの個人が謝罪する必要は原則ないと思う。ただし国家は連続性のある存在であり、謝罪すべきです。また国民には、謝罪するよう政府に求める義務があります』
わたしはテッサ・モーリスさんの結論に納得しました。
去年8月の安倍首相の戦後70年の談話で「あの戦争に関わりのない世代の子たちに『謝罪を続ける宿命』」を背負わせてはならない」という訴えに、違和感がぬぐえませんでした。
先の戦争で、時の日本政府は他国の兵隊や一般市民に対して、南瓜大虐殺、従軍慰安婦、民族差別、化学兵器の人体実験、略奪などの侵略的暴力をふるいました。。
自国の兵隊や国民に対して、兵站も考えない政府の無謀な作戦(餓死による戦死者)。沖縄戦、広島・長崎原爆投下、都市大空襲、シベリヤ抑留など終戦を長引かせたことによる多大な死者と被害を出したことの責任は大きい。
日本を代表する首相として、安倍首相は他国の人々に対しては勿論の事、自国民に対しても自戒の念を込めて謝らねばならないと私は思います。
安倍首相の戦後70年談話は、日本政府の首相の発言としてはやはり、間違いだったと感じました。
以下は私の今の考えです。
「日本の現政権は先の戦争で迫害を受けたり犠牲になった他国の人々に、心からの謝罪をすべきだと思う」
「日本の現政権は日本国民に対して、戦時の政府が行った国民への言論統制、人権無視といった弾圧を二度と起こしてはいけないと発信し続けるべきだと思う」
「日本国民が謝罪する必要はないかもしれない。しかし日本国民は現政権に、謝罪するように指示する義務があると思う」
「わたしたち人間が同じような間違いをしない為に。戦争責任は加害者こそ忘れてはいけない」
「日本政府が謝罪することは勿論のこと、国民が加害責任の連累を自覚することにより、改めて先の戦争での『2都市への原爆投下』に対して、加害者である米国に対して加害責任を問う筋道ができると思う」